2016年09月22日

道化師と糸繰り人形

理由なんて要らない、したけりゃするし、したくなけりゃしない、そんなシンプルな行動原理でいいんじゃないかなと思っている。しかしまあ、自分の気持ちを知ってやるためにはある程度分析しなくちゃいけないんだけれど、そうしたけりゃするだろうし、したくなけりゃしなくてもよかったりする。「僕たちは病気なんだ」まあ、そういう側面ももっているかもしれないけれど、ただの人。ジョンレノンに憧れて、尾崎豊に憧れて、志村正彦に憧れている。ただの人間。僕という枠の中で、絵を愛して、歌にして、歌う。それしかできないから、それでいいんだなって思っている。最近は絵から、歌を書くから、絵描きのことも考えてしまうのだけれど、「そこまで考えなくてもいいですよ」と言われたので、考えないようにしようとして、普通の人間として接するようにしています。絵を描かなければ、歌を歌わなければ全てを止めてしまえよと物騒なことも考えていたのだけれど、今は少し違うかな。それでも、僕は誰かの才能を殺したくないし、殺されたくもない。安定は確実に才能を駄目にしていくというのは、よく分かっていますので、そこらへん、考えて選んでいかなくてはいけないのかなあとも思うけれど、結局はその時、したいかどうかなんで、そこまで重要な問題ではないのかもなあ。でも、やらなきゃ何も残らないし、やるのであれば、中途半端にはできないのだよなという思い。中途半端にやるぐらいならば、やめよう、そういうことよね。きっとね、ずれてしまったのだと思うよ、気持ちがずれてしまったから、本来したかった形ってのも変わっていくし、君のこと好きだけれど、一緒にいられないわ、っていうそういうことになってしまうのだよ。あなたが幸福になるために人生を描いていくのであれば、それは否定できないし、あなたが不幸に足を突っ込んで人生を描いていくのであれば、それは否定できんし、認めていくけれど、それとは別のところに、僕とあなたは在って、全然関係のないところで僕らはあってしまっているのだから、想像は関係なくなって、創造も関係なくて、思いのままに、そこにある状態で付け足していけばいいですよ。結局は、恋も病も同じようなものだと言われるでしょう。僕たちはある意味病気で、ある意味健康なんですよ。糸繰り人形が、道化師に繰られているのか、それとも、糸繰り人形によって道化師が生かされているのかなんて、そんなこと本当はどうでもいいんですよ。見方なんて、何通りだってあるし、それが2面的であるという風に見ることだってできるし、道化師はいないっていうのだって、糸繰り人形は生きてなどいないっていうのだってできることなんですよ。何通りもあるけれど、これは僕のやり方、こうなるべくして、なっているのは、僕は選んできているからです。選びました。選んだので、よろしくお願いします。ご理解いただけなくても、よいのですけれど。
posted by Nonsugar at 08:41| Comment(0) | 窓際でお話をする少年
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